ここのところ「日報ってなに?」状態でしたが、株式会社C-driven(シードリブンと読みます)は無事3期目に突入できるほど順調にやってます。
仕事はちゃんとしています! ありがたいことです。
久々のUPなのにとっても短いブログになると思いますが、ちょっと書いておきたいと思いまして……。おヒマな方はお付き合いいただけると嬉しいです。
今回は、主に「読者が不特定多数で、その背景もまったくバラバラな媒体に掲載するコンテンツの制作にあたって」というテーマです。
ざっくり言うと、「SNS向けのコンテンツの正解ってなんやろう?」って話になっているかと思います。
さて、今更なんですが、弊社は特に文章周りのコンテンツの作成をやっている会社です。
そのメディア(媒体)は、Facebookに代表されるSNSもあれば、雑誌や動画コンテンツ(これはストーリー作りが専らですが…)、公的機関の報告書やセミナーの実施なんかもやっています。
セミナーはちょっと特殊といえば特殊なんですが、ね。
で、特にFacebookに関してはいわゆるナショナルクライアント様のアカウントなんかも数年ほど担当させていただいております。本当にありがたいことです。
(ナショクラのアカウントを担当していることより、“数年続いている”ということが自慢です。ハッキリ言いますが、自慢です)
で、わりと日々締め切りに追いかけ回される毎日を続けさせていただいていますが、これは文筆業を生業とする人間にとって、最高の栄誉だと思っています。
だからこそ、と言いましょうかたびたび「書くことに迷うこと」があります。
作り手の「下心」は透けて見える
もちろん、文章を書いたら「それがわかりやすい内容になっているかどうか」とか、「それがテンポ良く構成できているかどうか」「文法的に変じゃないか」「読んでシズル感を覚えるか」などなどは、どんな原稿を書いて書き終えても迷うものです。
ですが、ここでいう“迷い”はもっと根本的なところ「文章とは、何が正解か」という点です。
数年前までは、「文章を読んでもらったら、読者の心に何かしら響かせたい」と思っていました。そして、そういう心持ちで原稿を書いていました。(青いなぁって思いますね)
ですが、最近はそうした“驕り”は透けて見えるのだろうなぁと思うようになりました。
実際に、多分そういうことだと確信しています。
こういう思いを強くする経緯は、(武士の情けでどのコンテンツとは言いませんが)最近、SNS界隈で“あざとい”と取られるようなコンテンツや、“価値観を押し付けられている”と感じられてしまうようなコンテンツが立て続けに見られたことがきっかけです。
それまでにも「?」と思うものはあったのですが、言語化できるようになったのがやっと今だった、という感じです。
多分それらを作った側は意識的か無意識的かはさておき、どこかに「文章を読んでもらったら、読者の心に何かしら響かせたい」という下心があったんじゃないかなぁと思う次第です。
実際に、私もそういう「いいね! がいっぱいきそうだよな」と狙って作るコンテンツがなかったとはいえません。
ただ、そういうときに、「これって、やっぱりあざといよな」とか「これって、もしかして誰かを傷つけるかもしれないな」と思う、一種の抑止する心というのは、作り手側はちゃんと持っておかないといけないものだと考えています。
少なくとも、簡単に「バズるよ。共感得られるよ。いいね! 付くよ」なんて、最初から考えて作っちゃいけないんじゃないかなぁと。
「文章とは何が正解か」
で、ちょっと戻って「文章とは何が正解か」ということ。
まぁ、正解なんて多分ないんですが、それでも例えば「ある目的をもって読みに来ている読者にとって最も“得たい”と思う情報を伝えられる文章」はベターな文章だと思います。
その媒体が専門性であったり、読者の属性と欲求が明確であればあるほど、このことについては考えを洗練させることができるでしょう。
でも、SNSのように不特定多数で暮らしてきた家庭環境も地域性も、世代(年齢)ごとに持つ時代の匂いも違う人たちにとっての「正解の文章」を考えると、それはもう、絶対に作れないものです。
で、そんな絶望的なところにいきついたときに私が拠り所にしているのは、
「わたしが期待するのは、この書がだれにでも無害で、しかも人によっては有益であり(以下略)」という『方法序説(デカルト著)』の一節です。
これを読むと、
「あぁ、『心に残って、何なら強い影響を与えてやろう』という文章を作ることはやっぱり驕りであり、そこはもう、読者の捉え方に委ねるしかない。恣意的のものなんだな」と気持ちが楽になれるものです。
もちろん、じゃあ「箸にも棒にもかからないような、当たり障りないものを作る」とか「他でいい反応が出たから横展開しちゃおう」みたいなのはダメなんで、別なハードルは上がりますが…。
ただ、少なくとも「もしかして誰かを傷つけるかもしれないけど、おおよその人からいい反応がもらえるならいいじゃないか」という無責任でコンテンツを世に出してしまうことは自制することができると思っています。
ことほど左様に、文章を書く(世に出す)、ということは薄氷の上を抜き足差し足で歩くような、そんな心持ちであるわけですね。
ということで、「この文章が正解か」に迷った時は、「無理に読者に何かをさせようとしていないか」という視点と、「誰かを傷つけていないかどうか」に思いを巡らせることが大事なんじゃないかな、というお話しでした。